近代の歴史 ― 日露戦争

※左がロシア皇帝ニコライ2世(1868年5月18日生~1918年7月17日一部の革命派による虐殺死)、

 右が明治天皇(1852年11月3日生・現「文化の日」~1912年7月30日)。

 明治維新からわずか37しかたたない1904~1905年、少年の国日本が世界最強の帝政ロシアと戦った日露戦争。白人が世界を支配していた時代、有色人種が白人に勝利したこと過去も現在もなく、世界は日本が勝つとは思えなかった。帝国主義が大手を振っていた時代。三国干渉を盾に中立地帯の清国をロシアが自国領にしてしまう。富国強兵植民地にされるかの選択肢が迫られ、脅威が近づきつつあることを国民は感じながら“臥薪嘗胆”した。

 国力では勝つ見込みはなく、膨大なる犠牲をもってどうにか地上戦は6分4分で勝利した。

しかし北部ヨーロッパのリバウ軍港から出港したバルチック艦隊は大航海をして日本連合艦隊と一大海上戦に挑んできた。連合艦隊司令長官東郷平八郎は東郷ターン(丁字戦法)で敵の先鋒から集中的に迎え撃つ戦術を実施し、世界海戦史上異例な「完全勝利」を果たすことが出来ました。これが日本海海戦であり、国際的には“The Battle of Tsushima”と言います。

連合艦隊旗艦を務めたのが“戦艦三笠”で、丁字戦法の発案者は作戦参謀を勤めた秋山真之です。秋山真之と日露戦争日本海海戦を詳しく知る。東郷平八郎は国際的には、“AdmiralTogoアドミラル・トーゴ東洋のネルソンと尊敬され世界では非常に有名です。

記念艦三笠

 明治37・38年(1904~5)の日露戦争にさいし、東郷大将の指揮する日本連合艦隊はロシア艦隊を全滅し、わが国の安全を全うした。「三笠」はこの海戦で旗艦として活躍した殊勲の艦で大正15年(1926)記念艦として、現地に据え置された。艦内には当時の資料等が展示され一般に公開されている。

記念艦三笠

MEMORIALSHIP MIKASA

 前甲板より見た主砲塔、前艦橋とマストに翻るZ旗信号。

この艦橋で東郷司令長官は敵前大回頭を発令した。

 

 

所在地=三笠公園

 

神奈川県横須賀市稲岡町82-19

完成直後の戦艦「三笠」

明治35年

Battleship “MIKASA”

directly after completion(1902)

記念艦三笠 

日本海海戦時の

連合艦隊旗艦“三笠”前艦橋の図

(軍刀を持っているのは司令長官 

東郷平八郎)                        東城鉦太郎筆


日本海海戦では完全勝利した殊勲艦の旗艦三笠ではあったが、講和条約締結直後の1905年9月、佐世保港停泊中に弾薬庫が爆発し沈没した。339名が死亡し、日本海海戦(戦死33人、負傷92人)よりも遥かに大きな犠牲を出す。

 国をあげて引き上げられた後も21年9月にウラジオストクに近いアスコルド海峡で座礁したり戦後は災難続きだった。1923年、ワシントン軍縮条約で「廃艦」と決まり、国民の声で1925年に記念艦として保存された。 

東郷平八郎・元帥の晩年佐藤国雄著・朝日新聞社1990.2より転載。

(動画)東郷平八郎元帥国葬

太平洋戦争に敗れ、連合軍の進駐により「三笠」は艦橋、マスト、各砲、煙突など上部構造物を撤去され、見る影もなく荒廃しました。昭和30(1955)年建造時の乗組員と親交があった英国のジョン・ルービン氏が来日し、荒廃に慨嘆し、帰国後ジャパンタイムスに惨状を寄稿しました。記事は大きな反響を巻き起こし、三笠の復元気運が高まり、国民からの募金、米ミニッツ元帥や米海軍などの協力、政府の支援により1961年5月27日復元されました。